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[インデックス 13031] ファイルの概要

このコミットは、Go言語の math/big パッケージにおけるKaratsuba(カラツバ)乗算アルゴリズムの実装に存在していた、大規模な数値に対する計算において性能が著しく劣化する問題(「超多項式時間計算量」と表現されているが、実際には実装上の非効率性によるもの)を修正するものです。具体的には、Karatsubaアルゴリズムの内部処理における中間結果のコピー方法に誤りがあり、これが入力サイズの増大に伴い計算時間が急激に増加する原因となっていました。この修正により、特に大きな数値の乗算において、math/big パッケージのパフォーマンスが大幅に改善されました。

コミット

commit 018c60bd8f2447ee1426568707d7179623dac552
Author: Rémy Oudompheng <oudomphe@phare.normalesup.org>
Date:   Fri May 4 19:05:26 2012 +0200

    math/big: fix superpolynomial complexity in Karatsuba algorithm.
    
    benchmark                     old ns/op    new ns/op    delta
    BenchmarkExp3Power0x10              732          734   +0.27%
    BenchmarkExp3Power0x40              834          836   +0.24%
    BenchmarkExp3Power0x100            1600         1579   -1.31%
    BenchmarkExp3Power0x400            3478         3417   -1.75%
    BenchmarkExp3Power0x1000          19388        19229   -0.82%
    BenchmarkExp3Power0x4000         160274       156881   -2.12%
    BenchmarkExp3Power0x10000       1552050      1372058  -11.60%
    BenchmarkExp3Power0x40000      27328710     15216920  -44.32%
    BenchmarkExp3Power0x100000    612349000    131407100  -78.54%
    BenchmarkExp3Power0x400000  44073524000   1122195000  -97.45%
    
    R=golang-dev, mtj, gri, rsc
    CC=golang-dev, remy
    https://golang.org/cl/6176043

GitHub上でのコミットページへのリンク

https://github.com/golang/go/commit/018c60bd8f2447ee1426568707d7179623dac552

元コミット内容

math/big: fix superpolynomial complexity in Karatsuba algorithm.

benchmark                     old ns/op    new ns/op    delta
BenchmarkExp3Power0x10              732          734   +0.27%
BenchmarkExp3Power0x40              834          836   +0.24%
BenchmarkExp3Power0x100            1600         1579   -1.31%
BenchmarkExp3Power0x400            3478         3417   -1.75%
BenchmarkExp3Power0x1000          19388        19229   -0.82%
BenchmarkExp3Power0x4000         160274       156881   -2.12%
BenchmarkExp3Power0x10000       1552050      1372058  -11.60%
BenchmarkExp3Power0x40000      27328710     15216920  -44.32%
BenchmarkExp3Power0x100000    612349000    131407100  -78.54%
BenchmarkExp3Power0x400000  44073524000   1122195000  -97.45%

R=golang-dev, mtj, gri, rsc
CC=golang-dev, remy
https://golang.org/cl/6176043

変更の背景

Go言語の math/big パッケージは、任意精度の整数および浮動小数点数演算を提供します。このパッケージは、暗号化、科学計算、金融アプリケーションなど、標準の組み込み型では表現できない非常に大きな数値を扱う必要がある場合に不可欠です。

Karatsubaアルゴリズムは、大きな整数の乗算を効率的に行うためのアルゴリズムとして知られています。その理論的な計算量はO(n^log₂(3))、約O(n^1.585)であり、これは古典的な筆算による乗算のO(n^2)よりも高速です。しかし、このコミットが修正する問題は、math/big パッケージ内のKaratsubaアルゴリズムの実装において、特定の条件下でその理論的な効率性が発揮されず、入力サイズが大きくなるにつれて計算時間が急激に増加するというものでした。コミットメッセージの「superpolynomial complexity」(超多項式時間計算量)という表現は、厳密な意味での超多項式時間(例:2^n)を指すのではなく、Karatsubaアルゴリズム本来の多項式時間計算量(O(n^1.585))をはるかに超える、実用上許容できないほどの性能劣化が発生していたことを示唆しています。

ベンチマーク結果が示すように、特に 0x40000 (約26万) や 0x400000 (約420万) といった非常に大きな数値の乗算において、修正前は数秒から数十秒かかっていた処理が、修正後には大幅に短縮され、最大で97%以上の性能改善が見られました。これは、実装上のバグが原因で、アルゴリズムが本来持つ効率性が損なわれ、実質的に非常に非効率な動作をしていたことを明確に示しています。この修正は、math/big パッケージの信頼性と実用性を高める上で非常に重要でした。

前提知識の解説

Karatsuba アルゴリズム

Karatsubaアルゴリズムは、1960年にアナトリー・カラツバによって考案された、大きな整数の乗算を高速化するための分割統治法に基づくアルゴリズムです。2つのn桁の数を乗算する際に、古典的な方法がn^2回の1桁の乗算を必要とするのに対し、Karatsubaアルゴリズムはn^log₂(3)(約n^1.585)回の乗算で済みます。

基本的なアイデアは、2つのn桁の数 xy をそれぞれ半分に分割し、x = x1 * B^(n/2) + x0y = y1 * B^(n/2) + y0 と表現することです(ここで B は基数)。すると、x * y は次のように展開できます。

x * y = (x1 * B^(n/2) + x0) * (y1 * B^(n/2) + y0) = x1*y1 * B^n + (x1*y0 + x0*y1) * B^(n/2) + x0*y0

ここで、x1*y1x0*y0x1*y0 + x0*y1 の3つの乗算が必要です。Karatsubaアルゴリズムの巧妙な点は、x1*y0 + x0*y1 を計算するために、z1 = (x1 + x0) * (y1 + y0) - x1*y1 - x0*y0 という関係を利用することで、乗算の回数を3回に減らすことです。これにより、再帰的に問題を解くことで効率を向上させます。

math/big パッケージ

math/big はGo言語の標準ライブラリの一部であり、任意精度の数値演算を提供するパッケージです。これは、intfloat64 のような組み込み型では表現できない、非常に大きな整数(big.Int)、有理数(big.Rat)、浮動小数点数(big.Float)を扱うために使用されます。このパッケージは、内部的に数値の桁をスライス(nat 型)として管理し、効率的なアルゴリズム(Karatsubaなど)を使用して演算を実行します。

ベンチマーク

ソフトウェア開発において、ベンチマークはコードの性能を測定し、最適化の機会を特定するために使用されます。Go言語では、testing パッケージがベンチマークテストをサポートしており、go test -bench=. コマンドで実行できます。

コミットメッセージに記載されているベンチマーク結果は以下の情報を含んでいます。

  • benchmark: ベンチマークテストの名前。
  • old ns/op: 修正前の1操作あたりのナノ秒(ns)。
  • new ns/op: 修正後の1操作あたりのナノ秒(ns)。
  • delta: 性能変化の割合。負の値は性能改善を示します。

BenchmarkExp3Power0x... は、30x... 乗する演算のベンチマークです。0x... は指数を表し、数値が大きくなるにつれて、より大きな整数の乗算が内部的に行われることを意味します。

nat

math/big パッケージの内部では、nat 型は非負の整数(自然数)を表すために使用されます。これは []Word のエイリアスであり、Word はプラットフォームのワードサイズ(例:32ビットまたは64ビット)に応じた符号なし整数型です。つまり、nat は大きな整数をワードの配列として表現し、各ワードがその整数の「桁」の一部を保持します。Karatsubaアルゴリズムのような多倍長整数演算は、この nat 型の操作として実装されます。

技術的詳細

このコミットの技術的詳細は、KaratsubaアルゴリズムのGo言語実装における、中間結果のコピー処理の誤りに起因する性能問題の修正にあります。

Karatsubaアルゴリズムは、x * y を計算するために、x0*y0x1*y1、そして (x1+x0)*(y1+y0) の3つの部分積を計算し、それらを組み合わせて最終結果を得ます。この際、中間結果を格納するためのメモリ領域の管理が重要になります。

元のコードでは、karatsuba 関数内で中間結果を保存するために z スライスの一部を r としてコピーしていました。具体的には copy(r, z) となっていました。ここで z は結果を格納するスライスであり、n*4 の長さを持つと仮定されます。r := z[n*4:]z の後半部分を r として参照していますが、copy(r, z) とすると、z の先頭から z 全体を r にコピーしようとします。しかし、rz の後半部分しか指していないため、これは意図しない動作を引き起こす可能性があります。

Karatsubaアルゴリズムの再帰的な性質上、z スライスは部分積 z0, z1, z2 を格納するために使用されます。これらの部分積は、z の異なるセクションに配置されます。特に、z0z の下位部分に、z2z の上位部分に格納されます。

修正前のコードでは、z 全体を r にコピーしようとしていましたが、rzn*4 以降の領域を指していました。Karatsubaアルゴリズムの計算過程で、z0z2 はそれぞれ zn*0 から n*1、および n*2 から n*3 の範囲に格納されるべきです。z[:n*2]z0z1 の部分積が格納されるべき領域(または x0*y0x1*y1 の結果が格納される領域)を指します。

copy(r, z[:n*2]) への変更は、z の先頭から n*2 ワード分だけを r にコピーすることを意味します。これは、Karatsubaアルゴリズムの再帰呼び出しにおいて、z0z2(または x0*y0x1*y1)の計算結果が正しく保存されるようにするための重要な修正です。この正確なコピー操作により、中間結果の誤った上書きや、不必要なデータアクセスが排除され、特に大きな数値に対する再帰呼び出しの効率が大幅に向上しました。

また、コメントの修正も重要です。z1 = xd*yd + z1 + z0 から z1 = xd*yd + z2 + z0 への変更は、Karatsubaアルゴリズムの公式における z1 の計算式が、実際には z2x1*y1)と z0x0*y0)を使用することを示しています。これは、コードのロジックとコメントが一致していなかった点を修正し、コードの可読性と正確性を向上させます。

この修正により、Karatsubaアルゴリズムが本来持つO(n^1.585)の計算量が、大規模な入力に対しても適切に発揮されるようになり、ベンチマーク結果に示されるような劇的な性能改善が実現されました。

コアとなるコードの変更箇所

src/pkg/math/big/nat.gokaratsuba 関数における変更点:

--- a/src/pkg/math/big/nat.go
+++ b/src/pkg/math/big/nat.go
@@ -271,10 +271,10 @@ func karatsuba(z, x, y nat) {
 	//   xd = x1 - x0
 	//   yd = y0 - y1
 	//
-	//   z1 =      xd*yd                    + z1 + z0
-	//      = (x1-x0)*(y0 - y1)             + z1 + z0
-	//      = x1*y0 - x1*y1 - x0*y0 + x0*y1 + z1 + z0
-	//      = x1*y0 -    z1 -    z0 + x0*y1 + z1 + z0
+	//   z1 =      xd*yd                    + z2 + z0
+	//      = (x1-x0)*(y0 - y1)             + z2 + z0
+	//      = x1*y0 - x1*y1 - x0*y0 + x0*y1 + z2 + z0
+	//      = x1*y0 -    z2 -    z0 + x0*y1 + z2 + z0
 	//      = x1*y0                 + x0*y1
 
 	// split x, y into "digits"
@@ -318,7 +318,7 @@ func karatsuba(z, x, y nat) {
 	// save original z2:z0
 	// (ok to use upper half of z since we're done recursing)
 	r := z[n*4:]
-	copy(r, z)
+	copy(r, z[:n*2])
 
 	// add up all partial products
 	//

src/pkg/math/big/nat_test.go に追加されたベンチマークテスト:

--- a/src/pkg/math/big/nat_test.go
+++ b/src/pkg/math/big/nat_test.go
@@ -661,3 +661,21 @@ func TestExpNN(t *testing.T) {
 		}
 	}
 }\n+\n+func ExpHelper(b *testing.B, x, y Word) {\n+\tvar z nat\n+\tfor i := 0; i < b.N; i++ {\n+\t\tz.expWW(x, y)\n+\t}\n+}\n+\n+func BenchmarkExp3Power0x10(b *testing.B)     { ExpHelper(b, 3, 0x10) }\n+func BenchmarkExp3Power0x40(b *testing.B)     { ExpHelper(b, 3, 0x40) }\n+func BenchmarkExp3Power0x100(b *testing.B)    { ExpHelper(b, 3, 0x100) }\n+func BenchmarkExp3Power0x400(b *testing.B)    { ExpHelper(b, 3, 0x400) }\n+func BenchmarkExp3Power0x1000(b *testing.B)   { ExpHelper(b, 3, 0x1000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x4000(b *testing.B)   { ExpHelper(b, 3, 0x4000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x10000(b *testing.B)  { ExpHelper(b, 3, 0x10000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x40000(b *testing.B)  { ExpHelper(b, 3, 0x40000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x100000(b *testing.B) { ExpHelper(b, 3, 0x100000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x400000(b *testing.B) { ExpHelper(b, 3, 0x400000) }\n```

## コアとなるコードの解説

`src/pkg/math/big/nat.go` の `karatsuba` 関数は、Karatsuba乗算アルゴリズムの主要な実装です。

1.  **コメントの修正**:
    変更前のコメントでは、`z1` の計算式が `z1 = xd*yd + z1 + z0` となっていました。これは、Karatsubaアルゴリズムの公式 `x*y = z2*B^n + z1*B^(n/2) + z0` において、`z1 = (x1+x0)*(y1+y0) - x1*y1 - x0*y0` という関係を利用する際に、`x1*y1` を `z2`、`x0*y0` を `z0` と表現することに対応しています。
    修正後のコメント `z1 = xd*yd + z2 + z0` は、この数学的な関係をより正確に反映しています。これはコードのロジック自体を変更するものではありませんが、コードの意図を明確にし、将来のメンテナンス性を向上させます。

2.  **`copy` 操作の修正**:
    これが性能問題の核心的な修正です。
    -   **変更前**: `copy(r, z)`
        `r` は `z[n*4:]` として定義されており、これは `z` スライスの後半部分を指します。`copy(r, z)` は、`z` の先頭から `z` 全体を `r` にコピーしようとします。しかし、`r` の長さは `z` 全体よりも短いため、これは部分的なコピーとなり、意図しないデータの上書きや、必要なデータがコピーされないといった問題を引き起こす可能性がありました。特に、Karatsubaアルゴリズムの再帰呼び出しにおいて、中間結果が正しく保存されないことで、計算が非効率になったり、誤った結果になったりする原因となっていました。

    -   **変更後**: `copy(r, z[:n*2])`
        この変更により、`z` の先頭から `n*2` ワード分だけを `r` にコピーするようになりました。Karatsubaアルゴリズムでは、`z0`(`x0*y0`)と `z2`(`x1*y1`)の計算結果が `z` スライスの前半部分(具体的には `z[0:n]` と `z[2n:3n]` あたり)に格納されます。`z[:n*2]` は、これらの重要な中間結果を含む領域を指します。この正確な範囲のコピーにより、再帰呼び出しの際に必要な中間結果が正しく保存され、アルゴリズムが本来の効率で動作するようになりました。これにより、特に大きな数値の乗算における性能劣化が解消されました。

`src/pkg/math/big/nat_test.go` に追加されたベンチマークテストは、`expWW` 関数(`math/big` パッケージ内の指数関数の一部で、内部的に乗算を使用する)の性能を測定するためのものです。様々なサイズの指数(`0x10` から `0x400000` まで)に対してベンチマークを実行することで、Karatsubaアルゴリズムの性能が入力サイズに対してどのようにスケールするかを評価し、今回の修正が大規模な入力に対して特に効果的であることを実証しています。

## 関連リンク

*   Go CL 6176043: https://golang.org/cl/6176043

## 参考にした情報源リンク

*   Karatsuba algorithm - Wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/Karatsuba_algorithm
*   Go math/big package documentation: https://pkg.go.dev/math/big
*   The Go Programming Language Blog - Benchmarking Go: https://go.dev/blog/benchmarking
*   Stack Overflow - Karatsuba algorithm complexity: https://stackoverflow.com/questions/1000000/karatsuba-algorithm-complexity
*   Number Analytics - Karatsuba Algorithm: https://www.numberanalytics.com/karatsuba-algorithm/
*   Go source code for math/big/nat.go (for context on `nat` type and `karatsuba` function): https://github.com/golang/go/blob/master/src/math/big/nat.go
*   Go source code for math/big/nat_test.go (for context on benchmarks): https://github.com/golang/go/blob/master/src/math/big/nat_test.go
*   Go's math/big.Int and Karatsuba multiplication: https://swtch.com/~rsc/big.htmlI have generated the commit explanation based on your instructions. Please find the output below.
```markdown
# [インデックス 13031] ファイルの概要

このコミットは、Go言語の `math/big` パッケージにおけるKaratsuba(カラツバ)乗算アルゴリズムの実装に存在していた、大規模な数値に対する計算において性能が著しく劣化する問題(「超多項式時間計算量」と表現されているが、実際には実装上の非効率性によるもの)を修正するものです。具体的には、Karatsubaアルゴリズムの内部処理における中間結果のコピー方法に誤りがあり、これが入力サイズの増大に伴い計算時間が急激に増加する原因となっていました。この修正により、特に大きな数値の乗算において、`math/big` パッケージのパフォーマンスが大幅に改善されました。

## コミット

commit 018c60bd8f2447ee1426568707d7179623dac552 Author: Rémy Oudompheng oudomphe@phare.normalesup.org Date: Fri May 4 19:05:26 2012 +0200

math/big: fix superpolynomial complexity in Karatsuba algorithm.

benchmark                     old ns/op    new ns/op    delta
BenchmarkExp3Power0x10              732          734   +0.27%
BenchmarkExp3Power0x40              834          836   +0.24%
BenchmarkExp3Power0x100            1600         1579   -1.31%
BenchmarkExp3Power0x400            3478         3417   -1.75%
BenchmarkExp3Power0x1000          19388        19229   -0.82%
BenchmarkExp3Power0x4000         160274       156881   -2.12%
BenchmarkExp3Power0x10000       1552050      1372058  -11.60%
BenchmarkExp3Power0x40000      27328710     15216920  -44.32%
BenchmarkExp3Power0x100000    612349000    131407100  -78.54%
BenchmarkExp3Power0x400000  44073524000   1122195000  -97.45%

R=golang-dev, mtj, gri, rsc
CC=golang-dev, remy
https://golang.org/cl/6176043

## GitHub上でのコミットページへのリンク

https://github.com/golang/go/commit/018c60bd8f2447ee1426568707d7179623dac552

## 元コミット内容

math/big: fix superpolynomial complexity in Karatsuba algorithm.

benchmark old ns/op new ns/op delta BenchmarkExp3Power0x10 732 734 +0.27% BenchmarkExp3Power0x40 834 836 +0.24% BenchmarkExp3Power0x100 1600 1579 -1.31% BenchmarkExp3Power0x400 3478 3417 -1.75% BenchmarkExp3Power0x1000 19388 19229 -0.82% BenchmarkExp3Power0x4000 160274 156881 -2.12% BenchmarkExp3Power0x10000 1552050 1372058 -11.60% BenchmarkExp3Power0x40000 27328710 15216920 -44.32% BenchmarkExp3Power0x100000 612349000 131407100 -78.54% BenchmarkExp3Power0x400000 44073524000 1122195000 -97.45%

R=golang-dev, mtj, gri, rsc CC=golang-dev, remy https://golang.org/cl/6176043


## 変更の背景

Go言語の `math/big` パッケージは、任意精度の整数および浮動小数点数演算を提供します。このパッケージは、暗号化、科学計算、金融アプリケーションなど、標準の組み込み型では表現できない非常に大きな数値を扱う必要がある場合に不可欠です。

Karatsubaアルゴリズムは、大きな整数の乗算を効率的に行うためのアルゴリズムとして知られています。その理論的な計算量はO(n^log₂(3))、約O(n^1.585)であり、これは古典的な筆算による乗算のO(n^2)よりも高速です。しかし、このコミットが修正する問題は、`math/big` パッケージ内のKaratsubaアルゴリズムの実装において、特定の条件下でその理論的な効率性が発揮されず、入力サイズが大きくなるにつれて計算時間が急激に増加するというものでした。コミットメッセージの「superpolynomial complexity」(超多項式時間計算量)という表現は、厳密な意味での超多項式時間(例:2^n)を指すのではなく、Karatsubaアルゴリズム本来の多項式時間計算量(O(n^1.585))をはるかに超える、実用上許容できないほどの性能劣化が発生していたことを示唆しています。

ベンチマーク結果が示すように、特に `0x40000` (約26万) や `0x400000` (約420万) といった非常に大きな数値の乗算において、修正前は数秒から数十秒かかっていた処理が、修正後には大幅に短縮され、最大で97%以上の性能改善が見られました。これは、実装上のバグが原因で、アルゴリズムが本来持つ効率性が損なわれ、実質的に非常に非効率な動作をしていたことを明確に示しています。この修正は、`math/big` パッケージの信頼性と実用性を高める上で非常に重要でした。

## 前提知識の解説

### Karatsuba アルゴリズム

Karatsubaアルゴリズムは、1960年にアナトリー・カラツバによって考案された、大きな整数の乗算を高速化するための分割統治法に基づくアルゴリズムです。2つのn桁の数を乗算する際に、古典的な方法がn^2回の1桁の乗算を必要とするのに対し、Karatsubaアルゴリズムはn^log₂(3)(約n^1.585)回の乗算で済みます。

基本的なアイデアは、2つのn桁の数 `x` と `y` をそれぞれ半分に分割し、`x = x1 * B^(n/2) + x0`、`y = y1 * B^(n/2) + y0` と表現することです(ここで `B` は基数)。すると、`x * y` は次のように展開できます。

`x * y = (x1 * B^(n/2) + x0) * (y1 * B^(n/2) + y0)`
`      = x1*y1 * B^n + (x1*y0 + x0*y1) * B^(n/2) + x0*y0`

ここで、`x1*y1`、`x0*y0`、`x1*y0 + x0*y1` の3つの乗算が必要です。Karatsubaアルゴリズムの巧妙な点は、`x1*y0 + x0*y1` を計算するために、`z1 = (x1 + x0) * (y1 + y0) - x1*y1 - x0*y0` という関係を利用することで、乗算の回数を3回に減らすことです。これにより、再帰的に問題を解くことで効率を向上させます。

### `math/big` パッケージ

`math/big` はGo言語の標準ライブラリの一部であり、任意精度の数値演算を提供するパッケージです。これは、`int` や `float64` のような組み込み型では表現できない、非常に大きな整数(`big.Int`)、有理数(`big.Rat`)、浮動小数点数(`big.Float`)を扱うために使用されます。このパッケージは、内部的に数値の桁をスライス(`nat` 型)として管理し、効率的なアルゴリズム(Karatsubaなど)を使用して演算を実行します。

### ベンチマーク

ソフトウェア開発において、ベンチマークはコードの性能を測定し、最適化の機会を特定するために使用されます。Go言語では、`testing` パッケージがベンチマークテストをサポートしており、`go test -bench=.` コマンドで実行できます。

コミットメッセージに記載されているベンチマーク結果は以下の情報を含んでいます。
- `benchmark`: ベンチマークテストの名前。
- `old ns/op`: 修正前の1操作あたりのナノ秒(ns)。
- `new ns/op`: 修正後の1操作あたりのナノ秒(ns)。
- `delta`: 性能変化の割合。負の値は性能改善を示します。

`BenchmarkExp3Power0x...` は、`3` を `0x...` 乗する演算のベンチマークです。`0x...` は指数を表し、数値が大きくなるにつれて、より大きな整数の乗算が内部的に行われることを意味します。

### `nat` 型

`math/big` パッケージの内部では、`nat` 型は非負の整数(自然数)を表すために使用されます。これは `[]Word` のエイリアスであり、`Word` はプラットフォームのワードサイズ(例:32ビットまたは64ビット)に応じた符号なし整数型です。つまり、`nat` は大きな整数をワードの配列として表現し、各ワードがその整数の「桁」の一部を保持します。Karatsubaアルゴリズムのような多倍長整数演算は、この `nat` 型の操作として実装されます。

## 技術的詳細

このコミットの技術的詳細は、KaratsubaアルゴリズムのGo言語実装における、中間結果のコピー処理の誤りに起因する性能問題の修正にあります。

Karatsubaアルゴリズムは、`x * y` を計算するために、`x0*y0`、`x1*y1`、そして `(x1+x0)*(y1+y0)` の3つの部分積を計算し、それらを組み合わせて最終結果を得ます。この際、中間結果を格納するためのメモリ領域の管理が重要になります。

元のコードでは、`karatsuba` 関数内で中間結果を保存するために `z` スライスの一部を `r` としてコピーしていました。具体的には `copy(r, z)` となっていました。ここで `z` は結果を格納するスライスであり、`n*4` の長さを持つと仮定されます。`r := z[n*4:]` は `z` の後半部分を `r` として参照していますが、`copy(r, z)` とすると、`z` の先頭から `z` 全体を `r` にコピーしようとします。しかし、`r` は `z` の後半部分しか指していないため、これは意図しない動作を引き起こす可能性があります。

Karatsubaアルゴリズムの再帰的な性質上、`z` スライスは部分積 `z0`, `z1`, `z2` を格納するために使用されます。これらの部分積は、`z` の異なるセクションに配置されます。特に、`z0` は `z` の下位部分に、`z2` は `z` の上位部分に格納されます。

修正前のコードでは、`z` 全体を `r` にコピーしようとしていましたが、`r` は `z` の `n*4` 以降の領域を指していました。Karatsubaアルゴリズムの計算過程で、`z0` と `z2` はそれぞれ `z` の `n*0` から `n*1`、および `n*2` から `n*3` の範囲に格納されるべきです。`z[:n*2]` は `z0` と `z1` の部分積が格納されるべき領域(または `x0*y0` と `x1*y1` の結果が格納される領域)を指します。

`copy(r, z[:n*2])` への変更は、`z` の先頭から `n*2` ワード分だけを `r` にコピーすることを意味します。これは、Karatsubaアルゴリズムの再帰呼び出しにおいて、`z0` と `z2`(または `x0*y0` と `x1*y1`)の計算結果が正しく保存されるようにするための重要な修正です。この正確なコピー操作により、中間結果の誤った上書きや、不必要なデータアクセスが排除され、特に大きな数値に対する再帰呼び出しの効率が大幅に向上しました。

また、コメントの修正も重要です。`z1 = xd*yd + z1 + z0` から `z1 = xd*yd + z2 + z0` への変更は、Karatsubaアルゴリズムの公式における `z1` の計算式が、実際には `z2`(`x1*y1`)と `z0`(`x0*y0`)を使用することを示しています。これは、コードのロジックとコメントが一致していなかった点を修正し、コードの可読性と正確性を向上させます。

この修正により、Karatsubaアルゴリズムが本来持つO(n^1.585)の計算量が、大規模な入力に対しても適切に発揮されるようになり、ベンチマーク結果に示されるような劇的な性能改善が実現されました。

## コアとなるコードの変更箇所

`src/pkg/math/big/nat.go` の `karatsuba` 関数における変更点:

```diff
--- a/src/pkg/math/big/nat.go
+++ b/src/pkg/math/big/nat.go
@@ -271,10 +271,10 @@ func karatsuba(z, x, y nat) {
 	//   xd = x1 - x0
 	//   yd = y0 - y1
 	//
-	//   z1 =      xd*yd                    + z1 + z0
-	//      = (x1-x0)*(y0 - y1)             + z1 + z0
-	//      = x1*y0 - x1*y1 - x0*y0 + x0*y1 + z1 + z0
-	//      = x1*y0 -    z1 -    z0 + x0*y1 + z1 + z0
+	//   z1 =      xd*yd                    + z2 + z0
+	//      = (x1-x0)*(y0 - y1)             + z2 + z0
+	//      = x1*y0 - x1*y1 - x0*y0 + x0*y1 + z2 + z0
+	//      = x1*y0 -    z2 -    z0 + x0*y1 + z2 + z0
 	//      = x1*y0                 + x0*y1
 
 	// split x, y into "digits"
@@ -318,7 +318,7 @@ func karatsuba(z, x, y nat) {\n 	// save original z2:z0\n 	// (ok to use upper half of z since we're done recursing)\n 	r := z[n*4:]\n-	copy(r, z)\n+	copy(r, z[:n*2])\n \n 	// add up all partial products\n 	//

src/pkg/math/big/nat_test.go に追加されたベンチマークテスト:

--- a/src/pkg/math/big/nat_test.go
+++ b/src/pkg/math/big/nat_test.go
@@ -661,3 +661,21 @@ func TestExpNN(t *testing.T) {\n 		}
 	}\n }\n+\n+func ExpHelper(b *testing.B, x, y Word) {\n+\tvar z nat\n+\tfor i := 0; i < b.N; i++ {\n+\t\tz.expWW(x, y)\n+\t}\n+}\n+\n+func BenchmarkExp3Power0x10(b *testing.B)     { ExpHelper(b, 3, 0x10) }\n+func BenchmarkExp3Power0x40(b *testing.B)     { ExpHelper(b, 3, 0x40) }\n+func BenchmarkExp3Power0x100(b *testing.B)    { ExpHelper(b, 3, 0x100) }\n+func BenchmarkExp3Power0x400(b *testing.B)    { ExpHelper(b, 3, 0x400) }\n+func BenchmarkExp3Power0x1000(b *testing.B)   { ExpHelper(b, 3, 0x1000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x4000(b *testing.B)   { ExpHelper(b, 3, 0x4000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x10000(b *testing.B)  { ExpHelper(b, 3, 0x10000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x40000(b *testing.B)  { ExpHelper(b, 3, 0x40000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x100000(b *testing.B) { ExpHelper(b, 3, 0x100000) }\n+func BenchmarkExp3Power0x400000(b *testing.B) { ExpHelper(b, 3, 0x400000) }\n```

## コアとなるコードの解説

`src/pkg/math/big/nat.go` の `karatsuba` 関数は、Karatsuba乗算アルゴリズムの主要な実装です。

1.  **コメントの修正**:
    変更前のコメントでは、`z1` の計算式が `z1 = xd*yd + z1 + z0` となっていました。これは、Karatsubaアルゴリズムの公式 `x*y = z2*B^n + z1*B^(n/2) + z0` において、`z1 = (x1+x0)*(y1+y0) - x1*y1 - x0*y0` という関係を利用する際に、`x1*y1` を `z2`、`x0*y0` を `z0` と表現することに対応しています。
    修正後のコメント `z1 = xd*yd + z2 + z0` は、この数学的な関係をより正確に反映しています。これはコードのロジック自体を変更するものではありませんが、コードの意図を明確にし、将来のメンテナンス性を向上させます。

2.  **`copy` 操作の修正**:
    これが性能問題の核心的な修正です。
    -   **変更前**: `copy(r, z)`
        `r` は `z[n*4:]` として定義されており、これは `z` スライスの後半部分を指します。`copy(r, z)` は、`z` の先頭から `z` 全体を `r` にコピーしようとします。しかし、`r` の長さは `z` 全体よりも短いため、これは部分的なコピーとなり、意図しないデータの上書きや、必要なデータがコピーされないといった問題を引き起こす可能性がありました。特に、Karatsubaアルゴリズムの再帰呼び出しにおいて、中間結果が正しく保存されないことで、計算が非効率になったり、誤った結果になったりする原因となっていました。

    -   **変更後**: `copy(r, z[:n*2])`
        この変更により、`z` の先頭から `n*2` ワード分だけを `r` にコピーするようになりました。Karatsubaアルゴリズムでは、`z0`(`x0*y0`)と `z2`(`x1*y1`)の計算結果が `z` スライスの前半部分(具体的には `z[0:n]` と `z[2n:3n]` あたり)に格納されます。`z[:n*2]` は、これらの重要な中間結果を含む領域を指します。この正確な範囲のコピーにより、再帰呼び出しの際に必要な中間結果が正しく保存され、アルゴリズムが本来の効率で動作するようになりました。これにより、特に大きな数値の乗算における性能劣化が解消されました。

`src/pkg/math/big/nat_test.go` に追加されたベンチマークテストは、`expWW` 関数(`math/big` パッケージ内の指数関数の一部で、内部的に乗算を使用する)の性能を測定するためのものです。様々なサイズの指数(`0x10` から `0x400000` まで)に対してベンチマークを実行することで、Karatsubaアルゴリズムの性能が入力サイズに対してどのようにスケールするかを評価し、今回の修正が大規模な入力に対して特に効果的であることを実証しています。

## 関連リンク

*   Go CL 6176043: https://golang.org/cl/6176043

## 参考にした情報源リンク

*   Karatsuba algorithm - Wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/Karatsuba_algorithm
*   Go math/big package documentation: https://pkg.go.dev/math/big
*   The Go Programming Language Blog - Benchmarking Go: https://go.dev/blog/benchmarking
*   Stack Overflow - Karatsuba algorithm complexity: https://stackoverflow.com/questions/1000000/karatsuba-algorithm-complexity
*   Number Analytics - Karatsuba Algorithm: https://www.numberanalytics.com/karatsuba-algorithm/
*   Go source code for math/big/nat.go (for context on `nat` type and `karatsuba` function): https://github.com/golang/go/blob/master/src/math/big/nat.go
*   Go source code for math/big/nat_test.go (for context on benchmarks): https://github.com/golang/go/blob/master/src/math/big/nat_test.go
*   Go's math/big.Int and Karatsuba multiplication: https://swtch.com/~rsc/big.html