- 100周年記念時(平成5年)に、新校門となった。真っ白に見える
- 100周年記念碑はこのときに建てられた
私どもの折多小学校は、明治20年折口簡易小学校・多田簡易小学校として発足しましたが、明治26年両校が合併し、折多尋常小学校として創立致しました。
以来満百年、その一世紀の間に社会情勢の変化に伴い、学校も幾多の変遷を重ねながら今日まで限りない発展を遂げてまいりました。
その間、本校を巣立った3500名近い卒業生は、郷土の発展に努力されたり、全国各地に雄飛されて、国家社会のために活躍されている現状は、誠に心強く、本校の誇りとするところであります。
この意義深い本校の創立百周年の年を迎えるに当たり、校区民待望の屋内運動場の完成、校門周辺の整備等がなされました。このことは、本校の百年の歴史にあたかも華を添えるものであります。
本校の創立百周年を記念するため、校区民一丸となり折多小学校創立百周年記念実行委員会を発足させ、松尾直義委員長を中心にいろいろな記念事業を計画実施致してまいりました。
校区民はもとより、県内外の卒業生や市当局をはじめ関係各位の絶大なるご協力とご援助によりまして、記念事業のすべてが終了致しました。
この記念誌の発刊も記念事業の一環であります。「見やすく読みやすい記念誌」「”小学校は心の故郷”永久保存版として恥ずかしくないもの」等7つの目標を立てて編集してあります。後世に残る重要な事業だと思います。
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(第1章)
さて、私どもの折多小学校は、明治20年、折口簡易小学校、多田簡易小学校として、発足しましたが、明治26年、折口簡易小学校と多田簡易小学校が合併し、折多尋常小学校として創立しました。明治41年には尋常科6年制が実施され、大正3年に敷地拡張、大正4年に校舎新築と漸次学校としての内容や施設設備の充実整備がなされてきました。
昭和16年、戦時下にあって、折多国民学校と改称、昭和18年には高等科が設置されております。
しかし、残念なことに昭和20年5月13日の空襲のため、校舎並びに備品等が全焼し、これまでの学校の沿革や公簿、記録等を消失、戦前の学校については不明な点が多いです。昭和20年8月、終戦を迎え、昭和22年4月1日から学制改革により折多小学校と改称され、今日に至っております。
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記念事業として、校門の改築整備、緑化、校旗、グランドピアノ購入其の他。体育館緞帳、記念誌、事務経費その他。2300万円のお金は、金額だけでは計れない大変価値のある浄財であります。以上の記念事業にあてさせていただきます。
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(第1章)
記念誌の中の沿革史は、重要な部分であるとの認識は皆様と同じですが、御存じのように折多小学校は昭和20年5月の空襲で全焼し、貴重な記録の総てを失いました。
昭和6年発刊の阿久根町郷土誌にも尋常小学校の設立時の記載だけで、他校のように、沿革史の部分がありません。阿久根町役場も昭和20年に焼失し、阿久根市誌には、折多小学校の箇所に、空爆のため沿革史等焼失し戦前不詳につき昭和20年以後を記載したとして歴代校長名をしるしています。1893(明治26年)年から1945年(昭和20)年まで、実に半世紀、52年の空白があります。後日何とか掘り起こせないものかと考えています。
一般的な世情や教育の流れの中で、折多小学校百年のあゆみを振り返りたいと思います。
(まえがき)
明治10(1877)年1月 折口、多田の両地にそれぞれ寺子屋式教育機関が発足
・多田寺子屋式教育機関(後、簡易科小学校)
明治10年以前は、士族の子弟でなければ手習いや学問は禁止された状態であった。これでは農家や商家の子弟は駄目になるとの声が高まり、有志が集合相談の上、折口村、多田村の独自の力で寺子屋を建て、教育を始めた。それは明治10年1月のことである。(当時は折口村、多田村で合併した阿久根村は明治22年)
当時は資格をもった先生がいる筈もなく、有識者が皆の委託を受けて教授したのであろう。生徒も多数とは考えにくく、比較的裕福な家の子弟か、向学心のある子どもであったろう。寺子屋の大きさ、先生、生徒の人数等不明である。
場所は現在の多田消防分団詰所から見て丸内の方角で、記念碑(河川及び道路)のそばの空き地、又は記念碑のすぐ前の道路から記念碑をみて、その後方約10メートル先から堤防までのあいだの処である。そこには1本の大きな松の木があって、多田の村民が集まって会合を開く場所だったとのこと。現在は堤防、道路、記念碑の処はかさ上げ、埋め立てによりだいぶ高くなっている。多田1222-1の堤防よりの所である。
p29
(明治6〜12年の就学状況表)
市誌には「この頃の阿久根の就学状況は、不明な学校が多いが、明治12(1879)年の大川小学校の全校生徒数が34名で同年の第1回卒業生が、たった2名との記録を見ても阿久根の就学状況が、県平均よりも更におくれていたことが想像される。
なお脇本小学校の明治27(1897)年4月4日の卒業生が男子17名、女子1名で、翌28年4月6日の卒業生は、男子21名、女子3名で計24名となっている。脇本は比較的教育熱の高いところであったが、それでも就学率は以外に低く、特に女子就学率はきわめて低かった。」としるされている。