メモ

阿久根市折口

人口

昭和28年(1953)5月の学校ごとの人数

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各学校の人数。多い。今とは全然異なる。特に大川が多いのが不思議。薩摩街道だったためか? まだ三笠町は合併してないので記載はない。

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道路

鹿児島県道365号脇本赤瀬川線 - Wikipedia

  • 1989年(平成元年)3月29日 - 鹿児島県告示第696号により「鹿児島県道365号折口陣之尾線」が廃止され、告示697号により鹿児島県道365号脇本赤瀬川線として認定される
  • 現在の国道389号が開通するまではこの鹿児島県道365号脇本赤瀬川線を国道389号としていた
    • 1987年脇本バイパスと呼ばれる区間が開通
      • 開通時の記事
      • 広報あくね490号 https://www.city.akune.lg.jp/material/files/group/67/kohoS6211.pdf

観光

大島キャンプ場の人数。重視していたことがわかる。

昭和27年の観光の人数。県で1位だったとのこと。鹿児島県内の旅行先によく選ばれていた時期があると聞いたことがある。

郷土史

赤瀬川の無銘の墓は外国人の墓とのこと。

  • 月見橋は黒之瀬戸。木橋なので現存は怪しい。
  • 園田橋は写真集に比較画像があった気がする

似たような話は折口にもある。波留にもあった。

中央公園の不動明王の解説。

密貿易の島だったという。上陸は難しいらしい。

阿久根の来歴に関する資料。

折口

陣之尾は養蚕業が盛んだったとのこと。

折多地区土地改良工事中の貴重な写真。ぐちゃぐちゃ。どのへんか不明。

  • 阿久根市には平地が少ない。増産の余地のある数少ない田園地帯の1つだった。戦後最優先で建設されたように見える
  • 折口川の流路が大きく変わった。以前は蛇行していて、河口付近でふた手に分かれていた。現在は1つになっている
    • 1940年代の航空写真で確認できる
  • 土地改良工事は昭和26年(1951)から開始され、昭和31年(1956)に完工した
  • 阿久根市報のバックナンバーは昭和26年から公開されているが、初期は状態が悪く文字を判別するのが難しい。まだ手書きで写真の掲載はないようなので、記事があったとしても画像を確認するのは難しい。文献を調べる必要がありそう
    • 市誌か、新聞のバックナンバーを見る
  • 排水 + 土地改良 で構成される

おそらく現存する。ボロい建物だとは思っていた。

小学校の校門と校舎の建設。校門は現存している。

内田の石堤。どこかはよくわからない。

↑排水機場之完成記事。広報あくね 448号

神社

石船神社 | 鹿児島県神社庁

古老の言い伝えによると、神代の昔、御祭神が石樟船に乗りここへ流れ着かれたので祀られたという。当社より五十間ばかりの波限にその石樟船といわれる大岩があり、帆柱を立てた跡や、艫には柁床の跡があり、又、柁は出水郷隼人の瀬戸の柁折の瀬というところにある奇岩がそれであるという。 阿久根市誌(昭和49年刊)1020頁にある言い伝えによれば、建久三年(一一九二)鎌倉幕府の命により、山門院に下向した田上資一が氏神として建立したものといわれている。棟札には「慶長十六亥八月十四日大檀那藤原義虎公 子孫繁昌…」と記されている。 出水風土誌(大正4年刊,昭和51年復刻)523頁によれば 建久三年三月鎌倉の命に依り山門院筒田郷に下向した、上出水村武本田上氏の始祖田江資一(四代目より田上を名乗る)が氏神として創建す。当社の傍らに船形の巨岩あり。田上隠岐守漂着の軍用船化石なり。地理纂考に曰く往古漂着せし唐船の化石であると。

  • 民話 広報あくね460号 https://www.city.akune.lg.jp/material/files/group/67/kohoS6005.pdf

地誌

鹿児島県地誌 262ページ付近に折口村、多田村の記載がある。

  • 折口村の字地
    • 永田原
    • 鍋石
    • 折口
  • 多田村の字地
    • 陣之尾
    • 黒蕨
    • 内田
    • 大下
  • 大川村3900人。多い
  • 多田村470人
  • 折口村500人

地図

埋め立てる前の地図。砂浜が町のすぐそばに広がっていたことが確認できる。北部の国道3号線ではまだ陸橋ができていないので、鉄道と国道が立体交差していない。

その他

なんかほほえましい。

体育大会の記録。入賞しまくっている。

黒蕨

『阿久根町郷土史』30ページから。小字に黒蕨というのがある。地図にも記載されているが聞いたことがない。どこにいったのか?

永田原

『阿久根町郷土史』30ページから。小字に永田原とある。現在は永田上、永田下となっている。

大下城

『阿久根町郷土史』51ページから。古戦場。

陣之尾

『阿久根町郷土史』55ページから。古戦場。

永福寺跡

『阿久根町郷土史』61ページから。

五色浜

『阿久根町郷土史』64ページから。名勝。

脇本街道

『阿久根町郷土史』69ページから。当時の県道か。

岩船公園

『阿久根町郷土史』69ページから。

鉄道開通後里人相謀り石船公園として境内に人口を加え社殿を改修し以て**の面目を一新せり境内に日露戦役記念碑あり。又大弓射的場を設備せり神社の南約二町河口の白砂に横はる黒き大岩はこれ即ち岩船なり。
  • 景勝としての岩船と、神社としての岩船神社と、公園としての船は区別しているのだろうか?
  • 岩船は黒いのか

鍋石

『阿久根町郷土史』116ページから。

  • 筒田は釣田がなまったもの
  • 持帆山は帆が流れついたから
  • 餅井は餅がなまったもの
  • 筒田の人は昔門松を立てなかった

阿久根尋常高等小学校で教えられていた郷土修説集の話からそのままもってきたらしい。当時の作話の可能性もある。

岩船

『阿久根町郷土史』131ページから。地名のところは同じだが流れ着いたのが神様。

  • 戸柱公園は戸柱が漂着したから
  • 岩船には人の足跡と帆柱を建てる穴があった

道路

『阿久根町郷土史』169ページから。

  • 現在の国道3号線は昭和6年時点では、第二号線といったらしい
  • 県道。二、折口停車場折口線。三、折口停車場陣之尾線。五、阿久根牛深線

鉄道

『阿久根町郷土史』297ページから。

薩摩大川駅は1931年当時まだない。開業は1936年でほかの阿久根市内の駅より新しい。

川内線が開通したあと、鹿児島本線に改称した。

学校

第七項 折多尋常小学校

本校は折口駅を東にへだてる約56町国道に沿いて交通は便なれども部落に遠ざかり児童の通学には距離の遠きに失す。初め多田に簡易科小学校折口に折口簡易小学校在りしが明治26年両校を合併し中央なる折口字岩掛に校舎を建設し同年十月落成せり即折口多田の頭字を採りて折多尋常小学校と命名せしなり。義務教育の延長後地校校舎狭隘を告げ仮小屋三棟を以て一時其の急を補いしが大正三年度より敷地の拡張を図り大正四年10月校舎新築落成せり。

『阿久根町郷土史』417ページから。

折多尋常小学校。現在の位置に移った経緯。

字は岩掛というらしい。たしかにすごい断崖なので納得できる。

阿久根市地域防災計画にも書いてある。

山下

戦国時代?は山下の城が居城で中心地だった。神社、城跡、墓などいろいろ遺構がある。

折口の盆踊り

折口三文字で、地区の盆踊りがあったという。2024年時点で58歳の人が、中学生ぐらいのころあったという。現在はない。

海岸

海蝕洞

潮位29だと余裕で入れる。

旧田島橋跡

  • 1960年代にかかっていた
  • 近くの里道改修記念碑と関係あるか
  • 現橋の南側にかかっていたように見える

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折多小学校前の旧道跡

現在広い歩道がある箇所に国道3号があった。

  • 現在はややカーブしている
  • 曲がり道の角度が大きく、ゆるやかになっている
  • 現在は小学校前の歩道、水路、バス停がある

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折口港

二、折口港
折口川の河口にあり。水浅く河口狭きを以て大船を泊すべからず。只僅に漁船の繋船に便す。

『阿久根町郷土史』11ページから

今と同じ。

トンネル内で分岐・合流する

坂を登る道