ORD 12: 『阿久根の空襲』
『阿久根の空襲』のメモ。
メモ
※1945年5月13日阿久根市街地から5キロほど山手の桑原城地区への空爆午前の時間に、敵機35~36機で低空飛行による攻撃あり。
被害
・消失家屋22棟(藁葺きの屋根の為、延焼が早くまた消防団も敵機から、消化活動を阻害され被害が広がった。)
・機銃弾により、吉松キクノ(主婦)が大腿部貫通の重傷を負い、児玉重春(農業)の牛2頭が死んだ。
※同年5月13日上記の桑原城地区から海岸より2キロの折多小学校を中心に、数十機の艦載機が低空飛行で空撃した。
被害
・折多小学校全焼ほか死者1人負傷者不明
※同年5月13日折多小学校近くの折口変電所付近で列車が襲撃された。
被害
・死者1名ほか不明
※1945年6月26日阿久根市街地から南に10キロ下った大川地区(大川駅付近)の攻撃
被害
・列車に乗って下校中の中学生が二人死亡、50数人が重軽傷を負った。アメリカ機のB-17軽爆撃機を日本軍機と勘違いして手を振っていた中学生をめがけて、機銃が乱射された。列車はエンジンをやられ停止。負傷者を車外に連れ出そうとした中学生が撃たれ即死。
当時この列車に乗っていた人は『ドラム缶をハンマーで叩くような強烈な銃撃。山に逃げようとしたら爆弾を山に落とされ、崩れた岩が転げ落ちてきた。あの時の恐怖と言ったらなかった。両手で頭を抱えながら敵機が去るまで地に伏せていた。』と当時を語ってくれた。負傷者は、市街地にある内山病院に町の消防車で運び込まれたが、手当てを受けられない順番待ちの負傷者は、庭の戸板に並べられていた。当時、阿久根町内にはそれらしい軍事施設は無く西目にある上床山の山頂に防空監視塔がある位だった。
※1945年8月12日阿久根市街地から南に5キロ下った西目の飛松地区空襲午後3時ころ、3機の艦載機が低空で侵入、その中の1機が、西目小学校正門前の鉄道東側の田んぼに焼夷弾を投下、それと同時に機銃の乱射を行った。
被害
・36戸、106棟がたちまちに全焼。死者負傷者は無かったが、家畜の牛3頭が焼死した。多くの家屋が全焼した原因は、折からの強い西風と、藁葺き屋根、また待機していた消防団も敵機の銃撃のため、一歩も身動きがとれなかった。
(p29,30)
1945年5月13日・折多小学校焼失
当時阿久根町村役場職員 西 甚吉氏の日記から
昭和20年(1945年)5月13日、今日は三笠村役場へ公務出張の日だった。折口駅まで行ったとき、空襲警報だ。早速折口駅の防空壕に退避させてもらい、空襲警報が解除されたので、田島橋付近まで行ったところ、急に針金を切るような爆音とともに、実に群鳥のような艦載機が低空飛行して来た。思わず自転車をほったらかし、あわてふためきながら田島橋の下に避難すると、目の前の川にチュッ、チュッ、と機銃弾の水しぶきが上がり、橋の上でもパッ、パッと弾のはじける音が耳をつんざくばかりである。
橋台のコンクリートに体をぴったりとくっつけてようやく爆音の遠のくのを待ち、川からはい上がって見れば東の方が一面黒煙もうもうと天をおおっている。
もう三笠村行きは中止だ。駅のほうに引き返してみれば、今の空襲のため人影1つも無い状況だ。道路に機銃で撃たれたのだろう、男の死体が倒れている。しかし、黒煙の上がっている方が大事だと判断、急いでガードをくぐると、折多小学校は一面火の海に包まれているがだれ一人消火にあたっている人を見ない。大声で付近の部落に連絡し、ようやく、消防団員が駆けつけふと山手の方を見ると、また大きな黒煙があがっているところがある。懸命に駆けつけてみると、上桑原城部落が空襲を受けすでに13戸が全焼しつくしていた。
p56, p57
不発弾が阿久根に多かったのは何故か? 私の考えを述べますと、本来爆弾投下は高度からの攻撃でありますが、阿久根市街地の攻撃は低空からであり、そのため落下傘が開く間もなく地上に落ち、不発弾となったのではないかと思っているところです。また、田野澱粉工場に勤務していた時、アメリカ軍のジープがやって来ました。西目の上床山山頂にあった監視塔の壕の中から、日本軍の弾薬を没収し、田野澱粉工場所有の「田野丸」に積み、甑島と阿久根の中間の海で処分したと聞きました。(p106)
空襲を受けるまで阿久根小学校には、兵隊さんが駐留していましたが、空襲で学校も消失し、おれなくなった兵隊さんが、焼けて折れ曲がった銃身を担ぎ、隊を組みながら移動しているところも目にしました。しかし何処に行ったのかは、わかりません。(p109)
終戦の年、昭和20年は、空襲が激しくなり、学校は分散教育が始まった。学校は兵舎となり、沢山の兵士がはいっていた。生徒は各集落の公民館や神社に集まり、教師がそこへ出向いての学習態勢となった。(p115)
今は桐野への道はすっかり舗装され広くなっているが、50年前は雨が降るとぬかるみだった。物資は欠乏して靴も傘も無く、裸足で通う生徒も多かった。(p115)
阿久根小学校や折多小学校は、空襲を受けて燃えた。不平不満を言っては戦地で働く兵隊さん方にすまないと、大人も子供もよく頑張った。(p116)
7月10日には、脇本湾付近に停泊中の軍用船が襲われ、多くの軍属や船員が死傷した。その手当てに当たった脇本の仮屋園医院は悲惨を極めた。また、波留地区で多くの住家が、脇本の大漉松ケ根では農家が銃撃を受け消失している。幸いなことに脇本小学校、折口駅は数回にわたり機銃掃射を受けたが消失せず。教室の柱や壁に大きな弾痕を残したのみであった。(p120)
一方、米軍を迎え撃つわが軍の備えは、第40軍管下第303師団の伊藤連隊が、脇本および赤瀬川から阿久根海岸に1個大隊ずつ陣地を構築。また、出水海軍航空基地所属の陸戦隊は赤瀬川と脇本深田に砲2門ずつを展開していた。地域の住民はしばしば陣地構築に従事させられ、女学校の生徒は海軍の砲台で砲弾を磨く作業に従事していた。(p121)
当時、米軍に最も恐れられていた海軍の航空隊に、源田実司令が指揮する第343航空隊があった。世界に誇る紫電改で多くの戦果を上げていたが、その飛行隊長であった林重喜大尉(戦死後少佐)は4月21日、20機のB29の編隊と交戦、1機を撃墜したが、自分もエンジンを射抜かれ、折口海岸に墜落、戦死した。(p121)
水俣工場が空襲で打撃を受けたため、今度は高尾野町御岳集落に建設中の高射砲陣地作りに動員されました。その頃になりますと、出水の空をある時は南から北へ、ある時は北から南へボーイングB29の大群が青空に溶け込むように1万メートルの上空を編隊を組んで往来しておりました。それを見て切歯扼腕高射砲の発射を心待ちにしておりましたが完成したのち一向に撃つ気配なく、隊長に「何故撃たないのか」とつめよった事もありました。(p136)
Tasks
- p30の問い8の回答を写しもれた。「当時の様子がわかる地域の地図や写真はないか」
桑原城空襲。
- なぜ桑原城地区へ空襲した? 何か目標物があったのだろうか?
- 折口変電所付近の空襲の日付は間違っているように見える。本のほかの部分の記述と整合していないように思えるので確認する。
- 林少佐は撃墜は何日だったか?
- 味方機は登場せず、一方的な攻撃だったのはなぜか?
- ほかの都市と爆撃の時期を比較する
- B-17爆撃機とはどんな機体か
- 爆弾を山に落とすことがあるのだろうか? 鉄道網への攻撃ではないのか?
- 上床山の防空監視塔はどのようなものだったのだろうか?
折口空襲。
- 折口駅に防空壕があった
- 田島橋は今とは異なるか? 架設年的に、前の橋っぽい
- 下に避難できる構造である
- 橋台があり、コンクリート製である
- 隠れたあと「川からはいあがる」ような構造である
- 道路にいる人をピンポイントで狙っていて恐ろしい。上の被害の死者のことだろうか
- 折口ガードはこの頃からあった