ふるさとに珠玉の自然
阿久根市誌編纂委員会
委員長 浜之上訓衛
昭和49年12月、1330頁に及ぶ阿久根市誌に続いて、市誌双書第1集・阿久根の昔ばなしが発刊されたのが、6年後の昭和55年でした。以来第2集・阿久根の文化財、第3集・阿久根の地名、第4集・阿久根のことば、第5集・阿久根の人物と続けて発刊されました。そして今、ここの第6集・阿久根の自然の発刊を見るに至りました。おそらくは、この第6集をもって、市誌双書は一応の完結を見たものと思えます。
- 阿久根の昔ばなし
- 阿久根の文化財
- 阿久根の地名
- 阿久根のことば
- 阿久根の人物
- 阿久根の自然
しかし、中には残念でならないこともあった。今では肥薩おれんじ鉄道となってしまった、国鉄鹿児島本線、折口駅の駅舎前に植えられていた、老カイズカイブキが、われわれの調査後伐採されてしまった事であった。今も残る肥薩線嘉例川駅前のカイズカイブキ等と同じく、鉄道開通以来の歴史を知っている銘木だった。
尻無川
尻無川は市内南東部地域に位置する尻無地区を、東から西へ横断するように流れている。水源は紫尾山の南部、西谷から流れ出て東支那海に注ぐ2級河川である。下流域の證海寺前では、南畑集落の江里山から流れてくる支流江里川と合流し、きれいな水が急流や渕をつくることもなく流れている。延長10kmあまり、川幅は下流域で約10m。アユ、ハエ、ウナギ、テナガエビ、モクズガニなど多くの淡水魚が生息し、初夏の夕暮れからはホタルが乱舞する清流である。古くは、川岸が固められ、河川敷には容易に降りられることもなくなっている。尻無川は、その名のとおり、川尻に打ち寄せる荒波で、大粒の砂礫が堰を作り、流水は砂礫の中を潜行して海に注いでいた。この尻の無い川ということから、阿久根七不思議の1つにもなっている。しかし、昭和61年に完成した尻無大橋の橋脚部防波ブロックにより、川尻への荒波が寄せなくなったいま、尻無川の川尻はいつも開放され、川と海は直接つながっている。
p20
折口川
折口川は隣町野田町を源とする3つの小川、すなわち、内田川、筒田川、小川内川が合流して折口海岸で東支那海に注ぐ、全長9kmの河川である。
しかし現在市内で最大の田園地帯である折口、多田の水田一帯は往年、これまた市内では最大の入江だった多田浦の跡である。当時は当然この3つの小川も、それぞれにこの多田浦に流れ込んでいた筈である。時を経るに従いこの3つの川から運ばれてきた土砂や、豪雨の為に湾内は浅くなり、次第に干拓地化されて来ていたが、戦後の折多地区潅漑排水事業の完成によって、現在の姿になっている。
しかし現在でもこの折口川の最下流では川は2つ岐れ、中洲状の田島と地区の人達が呼ぶ地帯が現存している。また河口近くには、市内最大の排水施設がつくられて、洪水から折口多田一帯の美田を守ることのできる重要な河川でもある。
往年の多田浦、折口川の変遷の証として川口の岩船、鍋石、それに内田川沿いの西家に残る糸印、またその南側丘陵地の奈良時代の遺跡など重要なものが多い。
p24
大川島の暮子島
阿久根市の南部、西目大川島の沖合いに周囲約500mの小さな小島がある。島の名をクレコ島という。江戸時代の「三國名勝図會」の「鷹口海岸」の中で「塩井崎より南行すれば、亦地形湾曲をなす湾中に沙島あり、暮小島といふ」と記されている。
周囲にある穴島、琵琶甲島は陸続きであるが、クレコ島は大川島湾の離れ小島となっている。ただし、年1回7月の大潮の干潮の際は、歩いて島に渡れるほど潮が引いてしまう。島には蛇や野ウサギが生息するが、この干潮の際、陸地からクレコ島に渡ったのだと古老は話す。
p46
深田沖の平瀬
深田沖の平瀬は東支那海からの黒之瀬戸入口と、脇本湾口のほぼ中央部にあり、満潮時は潮に隠れて全く見えないが、干潮時に姿を表す周囲約500m程の瀬である。
古くから、黒之瀬戸を通って航海する手漕の船や帆船は、ここらあたりで潮の流れの替わるのを待つ、いわゆる潮待ちをしなければ瀬戸の通過は不可能なことであった。
しかし嵐の日や、夜半では、この平瀬の存在に気付かず、昔から多くの船の遭難が起っていた。明治38(1905)年と翌39年の、新鹿児島丸及び第3宗敬丸が、この平瀬に乗上げ座礁遭難したことで当時は非常に有名になったものだった。
戦後の昭和27(1952)年対岸の小平瀬鼻に、海上保安庁は灯台を建設、その後この平瀬に小平瀬鼻平瀬探照灯を建設して、満潮時平瀬が海中に没した時でも、この探照灯は海上に現れていて、多くの船舶の遭難を回避する役目を果たすことになった。しかし現在でも海上交通の難所であることに違いはないが、釣りを楽しむ人達にとっては最上のメッカである。
p48
愛宕鼻
脇本湾口南東部の突端の岬を愛宕鼻と言う。
岬の海岸の三方はすべて巨大な岩で、直下の海まで約30mに及ぶ垂直に切立った最先端は、巨岩が大きく海にせり出して壮観を呈している。
終戦直後まではこの巨岩の上に、数百年を経たといわれる老松が生い茂り、脇本地区随一の景勝の地として知られていた。遥か東に望む紫尾の連峰、すぐ下に連なる脇本折口海岸の美観と共に、南に大島をはじめ4つの島々は、この岬より見た景観が最高のものと言われている。旧暦3月10日の脇本で中心的な花見の場所でもある。
岬にある愛宕神社はもともと、明治14年(1881)年下出水村の招魂社として建てられたものであったが、終戦後は三笠村の護国神社と名を変え、阿久根市との合併に伴ない、護国神社が合祀された後は愛宕神社として現在に至っている。
p55
梶折鼻
黒之瀬戸のほぼ中央で最も狭い海峡の小さな岬状の突端を梶折鼻と呼ぶ。対岸の長島は呼べば答えるほどの近さであり、黒之瀬戸大橋の橋脚も近くに建つ。最も狭い故に、潮の流れの最も激しい場所として、古くから知られている。引潮時の壮観は黒之瀬戸第一のもので、渦巻く潮の様相と響く潮流の音は、見る人の肝を冷やすに充分である。
往年九州地方の船乗り達が、「1じゃ玄海、2じゃ千々岩灘、3じゃ薩摩の黒之瀬戸」と、恐れた航海の難所であったことも、うべなるかなと思わせる場所でもある。
またこの地名の梶折鼻とは、古くからこの地方に伝わる岩船伝説に基く、あの岩船と化した船が、この突端で急潮の為に梶を折られ、その梶が海中に突っ立って岩となったと言う、一連の物語の中の梶が折れた鼻(突端・岬)と言う意味で、この名がついたものだと言われている。
今では正に黒之瀬戸観光の中心地で、近年この瀬戸を上下する「イルカウォッチング」の好地点でもある。
p58
脇本湾
脇本の中心部にあって古くは、北は瀬野浦を、西北には槝之浦を湾奥部とする大きな入江を有する湾であったが、天和の頃(元年は1681)、今の宮崎神社から三文字あたりに潮止めの堤防を築き、湾奥40町歩の干拓工事が行われ、更に120年後の寛政12年には現在の西徳寺下から豊受神社下までの約40間(約80m)を締切る干拓工事が完成した。
三國名勝図會にある脇本港は、天保の頃のものであるから、当然この干拓工事完成後のものである。…湾内に小嶼あり寺島といふ辮才天祠、叉邏所、及び砲台等あり、此地沿海の景状殊に勝れり、寛陽公行館の跡あり…。これが三國名勝図會の説明である。現在でも、東の愛宕と西の番所の岬に囲まれ、明治の元勲、寺島宗則ゆかりの寺島が湾の中央に位置し、脇本浜一帯の湾沿いには巨大なアコウの群落が見られ、北薩地区有数の名勝の地に変わりはない。
p62
脇本・折口海岸
脇本下村の愛宕鼻下より、折口の折口川河口までの約3kmに及ぶ海岸は、北は不知火海最南端から、南は大川鈴木段下の川内市との境界まで、40kmに及ぶ海岸の中で唯一浦波静かな汚れを知らぬ遠浅の白砂輝く海岸である。
脇本小学校の旧校歌に
浦波寄せて風も無き
青松白砂の白潟は
金波万里に映へるかな
と詠われていたものだったが、戦後青松の古木はすべて枯れ果て、今では白砂のみが残る海岸となってしまった。
しかし、今でも夏場は海水浴場のメッカとして、また四季を通じてサーフィン愛好者にも喜ばれる海岸でもある。
ここから望む阿久根大島をはじめとする4つの島の景観は、市内のどの場所で見るより優美に見え、特に島影に沈む夕陽の壮観さは圧巻である。また阿久根県立公園内のメインの1つでもある。
p70
五色ヶ浜
戸柱山の、すぐ目の前に阿久根七不思議の1つ「光礁」を見ることが出来る。この光礁は、三國名勝図會にも載った、阿久根を代表する絶景の1つである。
明治の歌人八田知紀は、
光礁の光る心を人とはば
神のみたまと吾はこたへん
と詠っている。光礁を右に見ながら海辺を西に行けば、白砂の浜に出る。凡そ200mほどで砂浜は尽きるが、この海岸一帯を五色ヶ浜という。この浜は、名前に恥じぬほどの美しい浜で、阿久根が生んだ海運業の雄、中村武吉が放流した真珠の母貝「アコヤ貝」の名残が見られるところでもあった。しかし、現在はB&Gの艇庫ができ、また青年の家も建ち、沿岸には人家が並び、加えて波消しブロックが積まれている。
この波静かな五色ヶ浜は現在でも近くの学校の遠足の定番の地である。
p76
桑島は、古くは雌島と呼ばれており隣接する雄島(大島)、小島(小島)と共に母子島と呼ばれていた3つの島の中の1つである。三國名勝図會でも、この母子島海上の風景佳絶にして当邑名勝の境なり、と記されている。
昭和30年代までは老松が生育し、見事な日本画的な風情のある島であったが、その松も大方枯死して、島の北部にわずかに残るだけとなってしまっている。更に以前は、クワズイモ等の亜熱帯植物の大群生も見られたものだが、今では全く姿を消してしまっている。島の地質は、全体が安山岩質の火山礫の溶結した角礫凝灰岩や角礫集塊岩を基盤にしたもので成り立っている。島の東側の一部に砂浜も見られるが、他のほとんどは、嶮しい断崖となっており、特に西側及び南側は、風波による浸蝕が激しき島の山頂まで切り立ったところや、洞窟状にえぐられた岩場である。このような嶮しい人を寄せつけない島の状況から、幕末頃、密貿易の場所であったと噂されたりしたものであろう。また、一説には大蛇の棲む島などといわれてもいたものだった。
p78
中津原の葉タバコ
脇本から折口にかかる中津原地区は、春3月から7月にかけて葉タバコ一色になる。3月はビニールですっぽり覆われた高畦が、陽光を反射して白く輝き、4月になれば成長した葉が何枚も増えて淡緑色が畦を覆いつくす。5月は成長が目立ち、茎も伸びる。6月には芯や腋も止められ、成熟した葉が下葉から上に向かって次第に黄化が進み、やがて畑一面が黄緑色の彩りに変わり、色に合わせて収穫、感想されてゆく。
阿久根の葉タバコ産地はここ中津原だけで、15haを11名の耕作者が生産している。全員が認定農業者として市長認定を受けた専業農家である。中津原畑地の約80%が毎年葉タバコ畑になっているが、この地区の土壌が砂質土で排水が良く、肥料の分解、吸収も早く、生育後期の肥料切れが良いことが、葉タバコの生産地として最適の条件を備えていることになる。
現在、この団地では第三種黄色種(香気の優れた品種)が栽培されているが、高度な生産技術を必要とするこの品種の栽培は、土地条件の良さと、生産農家の技術水準の高さで裏打ちされて、県下のトップクラスの葉タバコ生産団地として、古くから全国にその名を知られてきている。
葉タバコ栽培の歴史は古く、慶長年間(1596~1615)に出水郷内で試作されたといわれている。栽培地として、明治末期頃の記録では、下出水村下村小組合の名がある。
p140
折口駅のカイズカイブキ
このカイズカイブキは肥薩おれんじ鉄道折口駅の駅舎前にあるもので、古老の伝えによれば、旧国鉄折口駅が開業した大正12(1923)年に植えられたものだという。それからすれば樹齢は約90年ほどだと推定される。また幹周り2m、樹高10mの見事なものである。カイヅカイブキは、ヒノキ科の低木で、イブキの1変種であり、針状の葉がなく、枝がねじれるむきがあり、ほとんどは庭木や生け垣に栽培されたものである。このカイズカイブキは、約1世紀近く、脇本、長島地区の人達の玄関口とも言うべき役を果たしていた旧国鉄の折口駅で、多くの乗降客を送迎して来た。特に昭和の初期から終戦まで多くの出征兵士を見送り、また多くの白木の箱の無言の帰還を迎えた古木でもある。
p145
遠見ヶ丘のチャート
阿久根市街地の西側に連なる遠見ヶ丘は、丘そのものがチャートからできていると言えるぐらい、チャートが広く分布している。特にホテルや戸柱公園・光礁あたりに多く見られる。チャートとは珪岩が熱変性作用を受けてガラス化したものである。珪岩の元になる珪藻土は地球の歴史の中では、中・古世代に湖水または入江に珪藻が大量に繁殖し、何百万年・何千万年という長い年数の中でその死骸が積もってできたものである。
p193
黒神岩の岩石
阿久根七不思議の1つ黒神岩は、県道下東郷阿久根線沿いの阿久根中学校の北側にある。地質学的には石灰岩で太古の生物の死骸が積もってできたものである。その生物としては、サンゴ、甲殻類、貝類などで、今から3億年前から4億年前に繁殖し、多量の死骸が積もって地層を作ったものである。巻貝の祖先と言われるフズリナ(紡錘虫)や三葉虫等が代表的化石とされる。この古生代の石灰岩の地層としては、山口県の秋吉台、熊本県の球泉洞などが代表的なものである。この古生代の地層の一部が地殻変動で押し上げられて、地表に出ているのが黒神岩や光礁やその周辺に見られる古い地層・岩石である。地層としては古生層で、3億年以上前に海に積もってできたものである。
p195
多田層
阿久根市多田の宮前金徳氏宅で発見された第四紀層を多田層と名付け、調査研究して報告されている。(2000年、大木公彦、他)
郷土での第四紀層の研究報告が少ない中で大変貴重である。宮前氏の宅地整備で発見されたもので、200万年前迄の層である。露頭は面上5m、宅地面下1mで、厚さ6mである。宅地面の高度は海抜16mである。多田層の形成年代は、今後の研究で明らかになるものと思われるが、入戸火砕流が2万5千年前とされるので、それ以前である。多田層が海成層であることは、化石から言えることであるが、その化石はオオハナガイ、オオマテガイ、リュウキュウザルガイ、キヌタアゲマキガイが同定されている。
多田層を不整合に覆う礫層は丸内層と名付けられている。上限の分布高度は海抜19mで、見える範囲の層厚は3.3mである
p197